【報告】五輪災害と祝賀資本主義―なぜ反東京オリンピックか

五輪災害と祝賀資本主義―なぜ反東京オリンピックか

7月30日、「五輪災害と祝賀資本主義―なぜ反東京オリンピックか」を行いました。
講師は鵜飼哲さん(一橋大学教授)。

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講演で鵜飼さんは
「何のためのオリンピックか?12年8月20日ロンドン大会選手団銀座パレード(50万人)が行われた。狙いの1つは、高揚していた反原発デモに対して福島第一原発事故から民衆の耳目を逸らすためのメディア戦略。第2は東京招致のための都民の支持率向上のための大衆操作。
安倍はブエノスアイレスでの「アンダーコントロール」という大嘘で五輪を招致した。今のところ、アンダーコントールされているのは日本の民衆で、汚染水ではない。
16年10月7日リオ大会選手団凱旋行進(公称80万人)が行われた。戦勝祝賀パレードのイミテーション。ただ、仕掛けた側は100万は集めたかったはず。

東京五輪に関しては、築地市場豊洲移転問題、五輪財政膨張、明治公園野宿者排除、霞ヶ丘アパートの取り壊し、エンブレム盗作、裏金など様々な問題・混乱がある。開催経費が立候補ファイルの2・5倍の1兆8000億円になり、それでもすまない。
「ノリ弁やめます」と言って都民ファースト都議は当選した。だが、小池都政は都政版森友問題といわれる晴海選手村用地売却に関する情報公開を拒否している。
「ライバルは1964年」という広告が流されているが。16年招致計画は石原都知事のイニシャティブ。ソウル・北京大会後の日本、東京だけはもう一度という新興国への対抗心、レイシズム、地方差別=首都中心主義などの「リサイクル・ナショナリズム」がある。

1964年の石原慎太郎は「優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。オリンピックにあるものは、国家や民族や政治、思想のドラマではなく、ただ、人間の劇でしかない。」と書いている。知事になってからの「ヘイトスピーチ製造機」がと驚くが。石原は実は変わってないのではないか。
ライバルは1964年と言うが。安倍の考える五輪は、過去のどの五輪よりも、1936年ナチ五輪に似ている。
私は「1964年の少国民」だが、当時は言われなかった、五輪は「国威発揚のため」という五輪憲章違反の目的がNHKなどで東京大会の目的として第一に言われている。
選手養成のための巨大資源の投入は防衛予算拡大につながる。
スポーツはナショナリズムの危険を逸らすのか煽るか。第1回近代五輪を取材したフランスの作家で20世紀前半の極右運動指導者シャルル・モーラス「オリンピックの国際主義はナショナリズムの強化に最適」と言っている。スポーツがナショナリズムを抑えたことはない。

「参加することに意義がある」(クーベルタン)という言葉は、違う意味で再解釈される。晩年のクーベルタンはナチス賛美の発言をしているが。
東京都は「『多様性と調和』の実現を目指してーオリンピック・パラリンピックと人権」と出している。障碍者の一部しか参加できない能力主義を強要するパラリンピックが「多様性と調和」となる。
「お・も・て・な・し」として8万人ボランティア動員が計画されている。「参加することに意義がある」はボランティア動員を正当化する言葉になる。
こうして「復興(妨害)五輪」は「改憲五輪」。「がんばろう日本/福島/東北」から「がんばれ日本」へとなる。被災地の資材・資金・労働力の不足でも、東京の再開発が優先される。
新国立競技場建設工事の23歳の現場監督の自死で明らかになったように、五輪関連工事の労働環境は苛酷。

東京オリ・パラ競技大会組織委員会が昨年出した中間報告は、日本での五輪は1940年も含めて全て「復興五輪」だとしている。
1940年東京大会は「紀元2600年」を世界に喧伝するために招致された。「関東大震災復興五輪」だったというのは明らかな歴史修正主義。
「復興」のイメージの演出のために、帰還強制、予選、「聖火」などが行われる。現実の復興ではない。
五輪=非常事態。自然災害とは異なり自ら「招致」する非常事態。五輪はロンドンでもリオでも地対空ミサイル配備のもと開催された。
2020年はターゲットイヤー。2018年は明治維新150周年
2019年は天皇代替わり+改憲
2020年はオリンピック=「新生」日本+新天皇の国際舞台でのお披露目が計画されている。「民族の祭典」!
この「民族の祭典」がそのまま資本主義の永続を寿ぐ「人類の祭典」となる

祝賀資本主義では、「祝祭」=「非常事態」下の法=権利の軽視?停止される。(共謀罪体制)。片務的な官民協調。公的資金をゼネコンに流し込む利権構造の全面展開。徹底的な商業主義。 セキュリティ産業の徹底的浸透。社会的スペクタクルの極限化などの問題がある(cf.ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』)
メガ・イベント化した五輪はメガ・シティにしか開催不可能。
「五輪」の名のもとに踏みにじられるものは、被災地の地道な「再生」への努力、障碍者の自己決定権、東京地域住民の生活権、列島住民全体の基本的人権、とりわけ労働者の諸権利、将来の世代の決定権、少数民族(アイヌ・沖縄)の自己決定権。
特に学校でのオリンピック教育は改悪教育基本法の下で行われる。
他にも、共謀罪制定強行、テロ対策の飛躍的強化、五輪特措法の危険性、住民管理制度の徹底化など、グローバル・ファシズム拡大の契機。
そろそろオリンピックを直視して、体系的な批判をしていかなければならない。」

講演記事はテオリア9月=60号に掲載予定

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