砂川闘争から三里塚へ 12・12連帯メッセージ 加瀬勉

砂川闘争から三里塚へ
12・12連帯メッセージ

多古町社会科学研究会〈会員20名〉は砂川基地反対闘争に吉葉久波、鈴木四郎、鈴木実、萩原忠吉、加瀬勉、小林豊等の代表を派遣することを決定した。野営、野戦に耐えられる服装をまとい、腰に米と軍隊用の飯盒をぶら下げた。私は復員してきた父の戦闘帽、軍服、足にはゲートル巻と地下足袋のいで立ちであった。

全国の支援団体と共にスクラムを組んで第四ゲート死守した。「五日市街道を警官隊が来るぞ」伝令の叫ぴ声。全身の力を込めてスクラム組んだ。警官隊突入。警棒で殴られ、腹を突かれ、スクラムを警棒を梃にしにじられて、叩き伏された。薄闇が迫ってきた。我らデモ隊と警官隊が対峙した。その時「赤とんぽ」の歌が続いて「故郷」の歌が沸き起こった。傷つき悔し涙のなかでみんなうたった。
警官隊はみな下をむいていた。デモ行進でアズサミ天神に結集。野戦の炊き出しのお粥。婦人行動隊の活躍、青木市五郎行動隊長の決意表明。今も私の身体の中に燃えたぎっている。階級闘争の万巻の書物より「砂川闘争の警官隊の一撃」は私を覚醒させたのであった。

政府は富里村に「第二東京国際空港建設を内定」私は富里村立沢小学校で「流血の砂川闘争」と砂川基地反対同盟青木市五郎さん講演を計画し実行した。淡谷悠三全国基地連委員長と青島事務局長に協力を依頼した。立沢小の講堂は同盟の人であふれ窓によじ登って見聴する人が出るほどであった。みんな息を凝らしいた。私は「砂川の人たちのように行動隊を作って戦おう」と提案レた。静まり返っていた会場は騒然となった。「血を流してまで戦えない」と意見がまとまりそうになった時、富里農業研究会(70名)のメンバーの佐藤繁夫〈双葉開墾〉増田茂〈武州〉吉田総一郎〈二区〉等が農業研究会を母体に空港反対青年行動隊を結成し上うと私の提案に同意してくれた。吉田総一郎行動隊長〈二区〉坂間伝伍副隊長〈大堀〉が選出されて富里、八街連合空港反対青年行動隊が誕生したのである。青年行動隊の千葉県庁包囲デモ、千葉県庁占拠抗議闘争を展開、青年行動隊は闘争の先陣で活曜した。この青年行動隊の活躍が政府を静観に追い込み八街市、富里村を救ったのである。

砂川基地反対闘争婦人行動隊の活躍する姿は私を励まし続けた。県庁乱入闘争。増田弘(武州〉細野幸雄〈武州〉加藤良作〈人形台〉の三名が逮捕された。夫を逮捕されて泣く妻たちに向かって私は「砂川の婦人たちのように婦人行動隊を結成してたたかおう」「千棄県警本部に押しかけて逮捕者を奪いかえそう」と呼びかけた。富里中体育館で「空港反対婦人親子大会」が開かれて「富里人街連合空港反対婦人行動隊が結成されたのである。隊長は篠原マサさん〈八街)副隊長は井原正子〈富里〉が選出された。

 篠原隊長の決意表明

今まで、私たちは婦人会の制服を着て紅白粉をつけて他人のような頗して集まりに出席していた。富里・八街は戦場になった。出動のドラム缶が鳴ったら「ソレーと掛け声をかけて戦いの現場に駆けつけようではないか」野良着こそ私たちの戦闘服である。この戦闘服を着てどこでも出かけよう。
私は篠原隊長の決意表明に感激して鳥肌が立った。砂川の日本人民の闘争が富里に八街にひきつがれたのである。そして三里塚闘争へ。
加瀬勉

 

ここで戦わずして
どこで戦うとゆうのだ

回顧と決意

私は空港建設に反対するために八街、富里の現地に常駐した。50年前のことである。
富里、八街には明治4年からの「佐倉小金井七牧農民騒乱事件」があり、平民社の人びとが来県して社会主義講話を行った高松学館〈高松入〉があり、大正期の西村、大鐘小作大争議を経て千葉県で初めての社会主義思想にもとずいて近代農民組合が組織され、それを母体に社会主義政党が誕生した。梅沢清、鈴木豊、池田滝治、細谷重徳等はそれを戦いぬいてきた先達の人たちであった。空港建設問題が起きると先頭に立って戦い農民運動に生涯をかけて身罷っていった人たちである。私はこれらの先達に育てられ「この人民の闘争の伝統をひきつがねばならない」と深く自覚したのであった。

1966年空港建設が三里塚に決定されるや私は三里塚に住居を構えて転戦した。三里塚は天皇家の下総御料牧場があり、隣接する千代田村には731部隊石井四郎の生まれ散郷である。絶対主義天皇制専制国家は人民を抑圧しアジアを侵略し国を滅亡させた。それを象徴しているのが御料牧場である。天皇の軍隊として最も狂暴性を発揮したのが石井四郎軍医中将率いる731部隊である。天皇と天皇の軍隊、この三里塚と千代田村で戦わずして日本のどこで戦うとゆうのか。私は生涯をかけて戦い抜くぞの気迫、気力、決意があった。
三里塚には天皇から賜った学習院講堂が学校敷地内にある。空港反対同盟はこの学習院講堂で誕生したのであった。一方、千代田村には石井四郎の自宅もあり、地域の郷社住母家の春日神社には石井四郎揮毫の大きな忠魂碑が建立されている。千代田小学校校庭には、石井四郎揮毫の「報徳」の二宮金次郎像が建立されている。裏面には、満州〈中国東北部〉五常、平房に出発する加茂部隊の人たちの氏名が刻されている。

三里塚芝山連合空港反対同盟の委員長になった戸村一作さん宅は農機具商であったが、天皇家の下総御料牧場の農機具修理を生業としていた。戦後三里塚開拓組合長は小川明治さんである。20周年開拓組合式典には皇族が列席して桃ノ木自宅庭に植樹してもらった。1960年代農業構造改善事業シルクコンビーナト事業式典には皇族が列席して宮下公民館庭に桑の苗木を植樹して祝賀の花火を打ち上げた。空港建設反対で天皇直訴を実行した菅澤一利老人行動隊長〈宿〉は天皇崇拝者であり、天皇の大御心恩慈悲にすがって臣下として助けていただこうと思った。三里塚反対同盟婦人行動隊長大竹はな〈古込〉は731部隊雇員である。小川源〈木の根〉反対同盟副委員長は731部隊雇員であった。千代田村農協組合長、反対同盟結成を呼び掛けた実川清之〈山田〉は長春日本開拓本部人事部課長、反対同盟副委員長瀬利誠〈横堀)は中国山東省出兵、中国人虐殺で戦犯として撫順収容所に収容されていた。最後の帰還兵である。小川彌〈中郷〉も中国戦犯で3ケ月収容されていた。石橋政次副委員長(天神峰〉は砲兵隊として上海に上陸南京攻略に向かっている。日本軍が南京大虐殺を行ったときに、小川喜重〈横掘〉南京大橋の守備兵であった。反対同盟幹部の小川聡一郎〈中郷〉地主で、千代田農協専務、町会議員は毛沢東の故郷、湖南省長沙に兵士として侵攻している。千代田村において石井四郎は郷土の偉人であり、加茂部隊を組織して村を豊かにしてくれた恩人なのである。空港建設反対同盟の組織三里塚地区は天皇の親衛隊近衛連隊であり、千代田地区は石井四郎の731部隊の加茂部隊である。近衛連隊と加茂部隊の連合組織が三里塚空港建設反対同盟組織なのである。明治維新、農民の一揆や打こわしの戦いが歴史を大きく動かしたのであるが、下級武土勢力によって権力が握られた。農民の立場から見れば支配階級の人たちである。近衛連隊と加茂部隊の連合組織の空港反対闘争は自由民権運動の二の舞いの運命をたどるのではないカ、 だが資本主義社会の主要な階級労働者階級の存在がある。革命の綱領を持つ社会主義政党も存在している。政党の指導、労働者階級の援助、共闘がなければ三里塚闘争は自由民権運動と同じ運命をたどることになるであろうと危倶して闘いつづけてきた。農民闘争のなかにどれだけ社会変革の思想と行動が存在するかは農民闘争の大きな評価の一つである。天皇崇拝者と731部隊員、雇員等の体験者と本当に生死をかけて50余年の歳月をかけて国家権力と戦い続けてきた。その生死を共にかけてきた同志は731部隊、雇員として平房で体験してきた行為を真実を私には語ってはくれてはいない。平房で行つてきた体験を真に反省し、中国人民に謝罪し、その歴史の教訓を真に学び取り平和を希求する決意が主体が獲得できたときに空港建設反対闘争の前途が開けてくるのであると私は確信をもって生きてきた。731部隊の帝国主義国家犯罪、権力犯罪の隠蔽の壁は厚く、重く、深海の闇の底にあるが決して私はあきらめやしない。「星火燎原」この信念と決意を貫き通してゆくことを責任をもって表明する。
加瀬勉

 

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