糟谷孝幸君追悼50 周年集会に140人(新聞テオリア第89号・2020年2月10日)

新聞テオリア第89号・2020年2月10日
69年を考えることは今を考えること
糟谷孝幸君追悼50 周年集会に140人

1月13日、権力犯罪を許さない 忘れない、糟谷孝幸君追悼50周年集会が大阪・PLP会館で行われた。主催は1969糟谷孝幸50年プロジェクト。
69年11月13日大阪扇町闘争に参加した糟谷孝幸(岡山大生)が機動隊の警棒乱打によって虐殺されて50年。集会には共に闘った元被告や若い世代など、全国から140人が参加した。司会は田中幸也さん(世話人)・高村幸子さん(ふぇみん岡山)。
最初に、糟谷孝幸さんを追悼して黙祷。
糟谷プロジェクトから、11・13を糟谷孝幸と共に闘った内藤秀之さん(世話人)が主催者挨拶。「糟谷が虐殺され、日米共同宣言に反対するんだと日本原に住み、牛を飼って、自衛隊実弾演習に反対してきた。
19年1月の東京での講演での準備で糟谷についての本がないことに気が付いた。5月に糟谷プロジェクトの呼びかけを出して以来、山崎プロジェクトに協力してもらい、たくさんの呼びかけ人・賛同人・基金が寄せられた。
これも糟谷がすばらしい闘い・生き方をしたから。そのことがたくさんの人を動かしている。糟谷は全共闘に参加したノンセクトの学生だった。迷いがあったと思うが、少しでも変えられる可能性があれば自分も行動するんだと、自分たちの行動に参加してくれた。
69年11月13日扇町は機動隊と衝突した激しい戦いで、糟谷は全力疾走で戦った。また、同じデモに参加して重傷を負った関西大学の学生2人が1年ほど経って亡くなっている。
秋には本出版を予定している。引き続いての協力を」
山﨑博昭プロジェクト代表の山﨑建夫さん(山崎博昭兄)が連帯挨拶。「67年10・8の時、私はノンポリで、弟の死は青天の霹靂だった。それからは混乱しながらの日々だった。
69年11月13日は、私も反戦で扇町公園にいた。その場で何が起きたかが分からなかった。
弟の時も解剖がされたが、学生が運転した装甲車に轢かれて死んだことにされ、警棒で殴られて死んだことは隠している。各地の集会で話をしても、装甲車に轢かれて亡くなったのではなかったのという声が聞こえてくる。まだ私たちのアピールが足りない。彼らは徹底的に権力犯罪を隠す。裁判で死因を明らかにすることはできなかった。
しばらく経ってから、反原発学習会などをしていた水戸喜世子さんと改めて会い、山崎博昭プロジェクトが動き出した。そして、記念碑、記念誌、ベトナム博物館での展示をすることができた。すごいことだと思う。
糟谷プロジェクトが私たちの活動を参考にして糟谷君を追悼したいということで、あの時代の死者はもっといる。あの時代の死者を検証して、民衆に知らせて残していかないといけないというのが共通認識。
去年、初めて京大で弟の展示会・講演会ができた。今後も協力し合って大きな運動にしていけたらいい」
海老坂武さん(フランス文学、糟谷虐殺告発人)が講演「1969年とは何であったのか」。(要旨別掲)
扇町公園で献花
荒木雅弘さん(告発を推進する会元事務局)が糟谷虐殺告発運動についての特別報告。「69年12月14日、糟谷の逮捕3警官(荒木幸男・赤松昭雄・杉山時夫)を特別公務員暴行陵虐致死罪で告発。91人が告発人になった。不起訴後は付審判請求に取り組んだ。
73年11月7日、11・13裁判証人の荒木幸男が突如出廷を拒否した。急遽、弁護士と自宅に行った。本人は不在だったが、自宅にあった賞状には『昭和44年11月13日佐藤首相訪米阻止闘争に伴う警備に従事中、旺盛な熱意と適切な職務執行により、公務執行妨害・凶器準備集合犯人を逮捕した功績により、ここに金一封を賞与する』とあった。荒木は2018年秋に勲章をもらっている。11・13扇町闘争では60人が逮捕、80人が病院に行った。誰が死んでもおかしくなかった。これが『旺盛な熱意と適切な職務執行』として叙勲を受けていることに怒りを持ちたい。
糟谷さんが生きていれば71歳。それを奪ってしまうのが権力犯罪。権力は学生の同士討ち説を展開したが、告発運動は事実を明らかにした」
佐藤耕造医師、菅澤邦明さんからのメッセージ紹介に続いて、同級生・元被告から発言。扇谷昭さん(糟谷同級生)は「日記に残した『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』という言葉に糟谷君の一途な思い・葛藤がある。社会に真摯に向き合い、自らが正しいと信じる行動を起こす中で権力の暴力によって命を奪われた」
加納洋一さん(同級生)、山本久司さん(11・13 闘争元被告団)に続いて、当時救援センターで活動していた水戸喜世子さん(山崎プロジェクト)は「たまたま亡くなったのは糟谷君だが、同じような弾圧を受けた人はたくさんいる。忘れないで、権力への闘いを引き継いでいきたい」
山崎毅さん(石垣島)、松井祐子さん(沖縄)、溝辺節子さん(ふぇみん婦人民主クラブ)、中川憲一さん(管制塔元被告)、岩木要さん(当時プロ学同委員長)からスピーチが行われた。
最後に白川真澄さん(世話人)が「本の出版によって、糟谷君の闘いと生き方を人々の記憶にとどめる。この時代の意味を改めて問い直す」と、11月の本出版に向けた原稿執筆と糟谷基金への協力、6月のシンポジウム「1969年と現在」への協力を呼びかけた。
その後、参加者は糟谷孝幸が機動隊の暴行を受けて逮捕された現場である扇町公園へ移動。献花を行った。

 

 

1969年とは何であったのか
海老坂武

 糟谷君は同じ時代に同じ志を持った仲間。
1969年を考える視点の一つとして、67・68・69年という枠で考える。この時代は運動が同時代的だった。ベトナム戦争、スチューデントパワー・ブラックパワーの運動、中国文化大革命、フランス5月革命。その時代を関わった人間がそれぞれ体験した思いがある。
私は66年フランス留学から帰り、一橋大学で教え始めた。67年10月8日、第一次羽田事件に国民文化会議の後ろについて参加した。学生と機動隊の衝突が始まった。身の危険を感じて歩道に上がって見る側に回った。それほど時間が経たずに山崎青年が殺されたと聞いた。現場感覚からすると、車に轢かれたなんてとんでもない。賛同を求められて、羽田事件抗議声明への署名をした。
68年、私はフランス5月革命について書いたり喋ったりした。イントレピット4人の会を立ち上げ、脱走兵支援をした。京都での反戦国際会議に参加した。
69年は大学問題でもみくちゃになった年だった。腹が立ったのは当時の東大教師で折原浩以外、加藤執行部に正面から文句を言う人がいなかったこと。1月19日に排除された後の「国家暴力の秩序からの東大の解放を」という共同声明の原案を書いた。世界3月号に大内兵衛が書いた「警察にお礼に行きたい」という文章には本当に腹が立った。
その後、「情況」で潜行中の山本義隆さんと対談した。水戸巌さんを中心に東大闘争を支援する会が立ち上げられ、5月29日全共闘を支持する大学教員の集会を開いた。
夏に脱走兵通信を出した。
一橋大でも闘争委員会が国立本校を占拠。夏休みは教授会で毎日ケンカをしていた。
その時期何を考えていたか。一つは脱走兵支援運動は何に共感してやるのか。兵士たちは国家の「殺せ殺せ」という命令に必死に抵抗して脱走した。そのような心の営みに共感した。
造反教員でも、学生の異議申し立てから逃れることはできない。教えるとは何だろうと考えていた。
文化闘争について考えていた。全共闘の運動は決して政治闘争・社会闘争ではない。当時、欠けていたのは文化が常にプラスではないということ。それまで文化・教育が人間を疎外するという考えがなかった。5月革命・文化大革命は文化に新しい意味を与えた。
改めて、1969年とは何か。行動の根拠を問うという発想が強かった。山本義隆さんは近代合理主義を批判して、合理は一つの秩序を作ってしまう、システムとなってしまう。教師とは、権力を支える高等職人になってしまう。
個人原理の運動
 運動としては、組織原理に対して個人原理が強く押し出されてきた。もちろん、マイナス面もあって個人のモチベーションがなくなってくれば運動をやめる。
この時代、市民運動が活力を呈した。市民という言葉が生まれたのは60年安保。市民の特徴は無党無派、24時間活動家ではない。広辞苑に「広く公共空間の形成に自発的に参加する人」という定義が加えられた。
市民運動が空気のようにあったのが67・68・69年。王子、佐世保、水俣、三里塚、沖縄と各地域に根差した運動が起こって深まりを見せた時代。個人の青春と時代の青春が一致した時代。動けば社会が変わるという楽観主義が日本にあったのは戦後すぐと59・60年。この時代の主体は親の世代も入っている。67~69年の主体の多くは若者。
69年はその時代を生きた多くの人々のその後の生き方を決めた歳月だった。これだけは忘れないという歳月が67・68・69年。記憶こそ倫理の核心。
69年とは何であったのかを考えることは、今何をするのかを考えるため。そのために今日集まった。
私は人間を殺そうとする方向に向かう政治に怒っている。民主主義を制限する政治に怒っている。怒りこそ市民運動の原理。原発輸出、武器輸出、辺野古基地建設、中東派兵は一体何か。今日の集会が大いなる怒りの場になればと思う。