書評『感染症と文明-共生への道』(新聞テオリア第93号・2020年6月10日)

新聞テオリア第93号・2020年6月10日
書評
社会・文明の変容の中で問われていることは
『感染症と文明-共生への道』 山本太郎/岩波新書

はじめに

はじめに断っておくと、著者の山本太郎氏は長崎大学や京都大学を拠点に長年にわたって感染症対策に取り組んできた医師であり、れいわ新選組の山本太郎ではない。さらに本書の内容は、コロナ危機の真っただ中にある今日、ただちに役に立つものではない。感染を防ぐための行動指針が書かれているわけではないし、政府のコロナ危機対策の問題点の分析に使える材料もすぐには見つからない。
本書は、人類史を通じての(あるいはそのもっと前からの)、人とウィルスや細菌との係わりをたどり、感染と人間の文明とがどのような相克の歴史を積み上げて来たのかを、様々な角度から壮大なスケールで論じたものである。
あまりにも鳥瞰的な内容を含むため、コロナの引き起こす問題に直面し日々格闘を続ける人たちにとっては、なんとも悠長な議論に映るかもしれない。しかし、雑誌「世界」の6月号の特集「生存のために―コロナ禍のもとの生活と生命」の中でも、本書は取り上げられている。こんな時だからこそ、現政権が積み重ねている失態を批判することだけでなく、その先に横たわる問題に目を向けていく必要があるのだと思う。

歴史を変えて来た感染症

本書の中では、世界の各地で繰り広げられてきた歴史上の様々な事例が数多く紹介されている。ある集団のうちの数十パーセントが死亡してしまったようなすさまじい事例も数えきれない。東ローマ帝国や中国の隋の滅亡など時代を画する大事件の背後に、感染症が関与してきた例も多数見つかる。
著者は、感染症と文明をめぐっては、四つの基本構造が存在するという。
一つ目は、文明が「感染症のゆりかご」として機能する、ということである。感染症は人口がある水準を超えない限り広がっていかない。定住社会が形成されたメソポタミア文明が、人類にとって初めての感染症の誕生だった。文明のゆりかご、ではない。文明がゆりかごなのである。
第二の基本構造は、感染症が文明を保護する機能を持つということである。
文明の周辺にいる人々は、感染症を持たない有利さを背景にして、繰り返し文明の中心部を攻撃する。しかし彼らがひとたび文明の中心部と接触すると、文明が保有する感染症によって人口動態に変化を及ぼすほどの影響を受け敗退していく。そんな関係が歴史の中で繰り返されているのだという。
第三の基本構造は、(理由は今一つ読み取れなかったが、)疾病のレパートリーを増やすことは、文明の拡大に寄与するという。
第四の基本構造は、感染症が社会のあり方に影響を与えるということである。インドのカースト制も、相互に安全な距離を保つことにその源流があるのだという。

帝国医療、植民地医療

近代の感染症は、ヨーロッパ列強による植民地支配と深く係わる。本書でもアフリカ各地に送り込まれた宣教師や軍隊が、感染症によってほぼ全滅したような事例がいくつも紹介されている。近代医療もまた植民地支配を契機に発展してきた側面がある。
それを指し示す用語として「帝国医療、植民地医療」という言葉がある。これらの医療は植民地に派遣した自国民を感染症から守ることが第一義的な目的だったが、同時に現地住民の健康を守り生産性を図るためにも用いられた。これらの人道主義的な側面が、植民地支配の正当化にも利用され、同時に近代医学に対する人々の信用の基礎にもなったという。

ウィルスの振る舞い

本書で興味深かったことは、ウィルスもまた変化し、戦略的に振る舞うということだ。
例えばマラリアは、患者が蚊に刺されて動けなくなればなるほどますます蚊に刺されやすくなりマラリア原虫の繁殖機会は増大する。よってマラリアは重症化する方向に進化するのだという。
逆に飛沫感染する呼吸器系感染症は、患者が元気で動き回るほど感染機会が増える。したがってインフルエンザは長期的には軽症化の方向へと淘汰の圧力を受けることになるという。
さらには流行速度が速い場合、患者が重症化しやすいウィルスであっても次の感染機会は維持される。流行が穏やかな環境下では次の感染の前に宿主が死んでしまって感染が広がらない強毒性のウィルスも、感染速度の速いところでは蔓延が続くため、強毒性のウィルスが優勢になっていくことになる。
著者によれば、ウィルスは段階を踏みながらヒトに適応していく。初期段階ではウィルスはまず家畜や獣から人間への感染を発生させる。次の段階では、ヒトからヒトへの感染が始まる。第三段階でウィルスはヒトへの適応を果たし、定期的な流行を引き起こすようになる。第四段階になると、ヒトに深く適応したためにヒトの中でしか存在できない感染症になるという。そして最終段階では、ヒトという種に過度に適応し過ぎたため、ヒトの環境や生活の変化に適応できなくなったときに消滅していくのだという。

「共生」の主語は人間だけではない

コロナ感染が広がる中で、「ウィルスとの共生」というフレーズをしばしば目にするようになった。しかし本書を読むまでは、「人間がいかにしてウィルスと共存共生することができるか」という観点でしか考えていなかったことに気づかされる。
前の章で触れたように、ウィルスもまた人間と同等に共生の主語であり、「人間とどう共生するか」の戦略はウィルスの側にも存在する。自然が無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えることによって生じるこれらの現象も、人間と自然との双方を主語にして捉え直すことによって、よりその実相に迫れるのではないかと予感させられる。
「環境保護」という人類が直面するもう一つの課題も、私たちは無意識のうちにともすれば人間だけを主語にして考えてしまっている。例えば「人間の生存環境を守る」というふうに。環境問題を「人間の側からだけでない視点で考える」とはどういうことかも、本書からそのヒントを学べる気がする。

コロナが変えた世界

本書を念頭に置きながら今回のコロナ感染に目を向けてみるならば、この流行はいずれ収束する。だがしばらく間をおいて第二波が必ず襲いかかる。そして収束という言葉とうらはらに、社会や文明は実は深いところで変容している。
医療崩壊に直面したヨーロッパの国では、老人より若い人の命を優先せざるを得ない状況も出現したという。しかしそれは、弱者に対するケアを最優先するというこれまで国際社会が確立してきた倫理規範とは明らかに異なる。それがどのような社会の変容を生み出していくのかはいまだ未知数である。
先に挙げた、雑誌「世界」の特集の中では様々な危惧が指摘されている。これまで新自由主義を標榜してきた国や人々の中でさえ、ロックダウンや社会統制への支持が急速に高まっている。スラヴォイ・ジジェクは、トランプ大統領が「私的セクター接収の計画」を発表したことについて、かつての戦時共産主義との類似性の匂いを嗅ぎとり、この「強いられたコミュニズム」の行く末を危ぶんでいる。
同じ特集の中でステファヌ・オードゥアン=ルソーは、個人と思考と物が自由に移動出来、各国家の主権が縮小していくというEUの理想が後退し、「たった一週間で諸国民とその国家が再び姿を表しました」と述べている。また、次第に国家元首のいうことを聞かなくなっていたはずの人々が、「いまや彼らの言うことに固唾を呑んで聞き入っている」と事態の異常さを指摘している。

包括的な問題設定へ

問われているテーマの多くは、いずれも容易には答えを出せない問題である。しかし大事なことは、「自由かそれとも安全か」といった二項対立の罠に陥らないことだろう。「寄り添うこと」と「距離を保つこと」が必ずしも二律背反にならないように、より包括的な問題設定へと問い自体を組み替えることによって切り開いていく道が必ずあるはずだ。そんな思想の力が今こそ求められているのだと思う。
滝川一郎